Tomoko's travel

トラベルライター/ジャーナリストの松田朝子が綴る旅の日々。旅すると更新します。

メディアの社会科見学・日本航空安全啓発センター

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 私のブログを読んでくれている人の中で、どれだけの人が、1985年8月12日に起きた日航機墜落事故のことを知っているだろうか?

たぶん、話には聞いていても、リアルタイムで知らない人も多いのではないかと思う。

先日、私が訪れた「日本航空安全啓発センター」は、あの、乗客乗員524人を乗せて御巣鷹の尾根に激突したJL123便の残存機体をはじめ、1950年代以降のJALおよび世界の航空機事故の記録を展示してある施設である。

ここは、今年4月に出来たばかりのJALグループの研修施設である。一般公開はしていないが、航空安全に関心をもっている一般の人たちの見学にも、研修に差し障らない程度に応じてくれるそうだ。

勿論、訪問者は事前に登録をしなくてはならない。

たまたま私は、所属する作家グループの「飛行機研究会」の人に声をかけられ、飛行機には疎い私だけれど、この歴史に残る航空機事故をきちんと知らなくては、とおもい参加をした。

メンバーは詳しくは書けないが、当時この事故を取材した記者、事故当時は報道番組に出ずっぱりだった航空評論家の先生など、総勢15人。

我々には撮影許可はおりたが、普通は撮影を禁止しているそうだ。

同センターは、羽田空港の施設内にある、第二綜合ビルの2階にある。

内容だけに、スタイリッシュなどという表現は控えたいが、整然とした空間。

資料室と残存部品展示室の2つに分かれていて、まず最初は資料室である。

ここには、JALが起こした事故や世界の航空機事故のデータが、パネルになっていて部屋を取り囲んでいる。事故の概要から対策まで、パネルにはこと細かく記されている。また、PCもおいてあり、センター内のモニター映像、ネット上からの事故情報を確認することが出来る。誰かがこのPCを起動させ、ボイスレコーダーから分析されたJL123便の交信ドキュメントの再現が流れ始めた。

離陸12分後。伊豆半島東あたりで、「ドーン」と言う音とともに圧力隔壁が破壊。

粉々にくだける尾翼。

「ハイドロ全部だめ」

という機長の声。油圧装置がすべて不作動となったのだ。

ここからは、いわゆる「ダッチロール」と言われた、上下左右に激しく揺れる迷走飛行だ。それをリルートしようとする機長と管制官のやりとりが重々しく続く。管制官の、

「日本語でいいですから」

の問いかけは、どれだけ事態が緊迫していたのかが伺い知れる。

だが、思った方向に動かない機体は、羽田に戻ろうとしても戻れず、機首を最大限に上げても、迫る尾根を避けることはできなかった。

「ダメかもしれない」

機長の言葉が切ない。

そして18時56分、当時はまだ名もない群馬県の山中(標高1565m)に墜落。

当時ではTVで何度となく流れたこの再現ドキュメントだったが、あらためて見ると

胸に迫るものがある。気がつくとパネルを見ていた人たちみんな、この1台のPCの周りに集まっていた。

そこからは展示室へ。

間接照明、アートギャラリー風の展示室で、まず最初に飛び込んできたのは、ほとんど原型をとどめていない垂直尾翼だ。壁面にはボイスレコーダーをはじめ、

1985 8 12

と大きく書かれた文字と、交信内容、飛行ルート、当時の座席表。

私はとっさにNYのグランド・ゼロを思い出していた。だが建物と違い、航空機には

交信記録が残る。これが余計に辛い。機内アナウンスの、

「赤ちゃんはしっかり抱いてください」

という言葉に胸が詰まった。

座席表を見ると、満席である。お盆で人の移動が最も多い、いうなればピークシーズンだったからだろう。そのうち生存者がいたのは、(4席だけ別の色になっている)皮肉なことに後方、最初に破裂した圧力隔壁の近くではないか。

次はその圧力隔壁。

この事故の発端は、同機がその7年前に起こした、尾部接触事故「しりもち事故」の際のメンテナンスにあるといわれる。ここではそれにも詳しく触れている。

「しりもち事故」の後、この圧力隔壁を修理するにあたって、上壁と下壁の接続が完璧ではなかったのだ。そのことが、その後7年間の飛行で隔壁の金属疲労を早めたという。

展示は後部胴体部分、座席シートと続く。

座席のなかには、S字に曲がりほとんど原型をとどめていないものも。そして背もたれより、椅子部分の損傷が激しい。3列のシートは、背もたれの両端が曲がり、椅子部分はシートがなかった。

これまで、残存機体は保存していたものの、展示に踏み切るには様々な反対意見や精神的な苦痛もあったそうだ。でも、あの事故から21年、時代は事故のことを知らない若い世代に移ろうとしているなか、事故から得た教訓を風化させず、安全運航の重要性を一人ひとりが胸に刻めるように、このセンターを設けたという。

約1時間の見学の後、みな無言のうちに建物を後にした。

「通夜に行ったような気分」

誰かがそんなことをポツリと言い、全員で大きくうなずく。

この「飛行機研究会」は、リーダーを最近亡くし、そのお通夜に行ってからまだ日が浅いという。そういう意味で、慰霊訪問でもあった。

表に出ると、空港施設ゆえ、飛行機がバンバン離発着しているのが見える。

そんな「生きている」飛行機と、今、目の当たりにした「鉄片」。

あまりに痛い生と死のコントラストだ。

この狭間にあるのは、何だろうか?

元を辿って考えていくとそれは、危機管理ということに行き着く。

でもこれは現場の人間だけの問題ではないと思う。平和な状態をありがたいとも思わず、初心も謙虚な気持ちも忘れて、突っ走っている現代人のすべてが、今一度考え直す問題ではないだろうか?

私は航空関係者ではないけれど、事故をリアルタイムに知っている者として、後進に語り継いでいけたら、とつくづく考えた。

(これは、私のmixi日記からの抜粋ですが、より多くの人に読んでもらいたいと思い、

こっちにも載せることにしました)

aisbn:4426751160旅先だとどうして彼は不機嫌になるの